うっすらと、油絵の具の匂いがのこる美術室に、きらきらとした正午の淡い光が入ってきている。その一筋が、机の上にちらばったステッドラー製の鉛筆を入れるブリキの箱に反射してチカッと目に入り、あたしはちょっとうつむいて眩しさに目を細める、そしたら一瞬できれいであの容赦のない声が飛んできた。


「顔、動かさない」

「.........ごめ」


この日3回目のお叱りをうけて、そろそろ不貞腐れかけてるあたしは気のない謝りをいれる。あっれ、4回目だっけ?幸村は眉間に美しい皺をよせて、器用に手元の紙にさらりと鉛筆を滑らせている。見る間にあたりをとった女の子の顔が出来上がって行った、その線のやわらかさとは反対にちらちらとあたしの顔をなぞる視線は冷たい、ずっと。


「はーい、今日は二人一組になってお互いをモデルに絵を描きましょう」


美術教師のその声のすぐあとに、あたしは逃げる間もなく、幸村に首根っこを掴まれた。青ざめるあたしに羨望とちょっぴりの同情の目線をおくって、手をふる友人らを呪いながら拒否権もなくずるずると窓際の席までひっぱられ、それからあたしはずっと幸村に刺すような視線で見つめられている。授業開始からもう20分、そろそろ背中もお尻も、そして心臓も痛い。


「いいですかー?今鉛筆を使って描いていますが、人の顔に線はありません。
すべては空間と輪郭だけです。みなさん、それをふまえて陰影をつけていって下さい」


幸村の背後に見える窓から透けるような青い空がひろがり、ゆれる淡い光がうつむく幸村のやわらかい髪を、ふわふわと金色に染める。たぶん、この人の顔はずっと繊細に、もっとも丹精を込めて、天上にいる誰かさんが贔屓して作ったのだろう。言うことのない理想的な空間と輪郭。あたしの机の上には、幸村にはまったく見えない下手な風刺画のような描きかけの絵が、完成半ばで放置されている。誰にいうでもなく、つい溜息が出た。


「柳が良かったな.........」

「なんで?」

「描きやすそうだから」

「ふーん」


何とはなしに言った言葉なのに、幸村はちょっと眉間の皺を深くさせた。だめだ、たぶん今誰か他の男の子の名前を出しちゃいけなかった。ひやひやとしながら幸村を見つめると、軽く睨まれた。“わかってるならやるな”黒い瞳がそう言っている。




一週間前、あたしは幸村に告白された。

今日みたいに午後の光が暖かい教室で、まるで呼吸するように自然に幸村は言ってのけた。最初にあたしの中に生まれた感情は、喜びでも恥じらいでもなく“ガーン”という擬音語つきのショックだった。もちろん幸村への好意がないなんて言ったら、バレンタインの日に幸村の靴箱にチョコつっこんだ女の子全員に殺されかねないけど、実際3年間立海のマネージャーをやっていて、雨の日も晴れの日も風の日も、あたしはグリーンのコート上から汗だくで、けれどしっかりとした“幸村精市”らしい足取りでベンチへと戻ってくる彼に、万感の思いできれいなタオルを渡すだけで、心がいっぱいになった。幸村はいつもちょっと微笑んでから、丁寧に受け取ってそれに顔をつけた。あの泣きそうな夏の終わりの日でさえもー

そうして、軍隊のような立海テニス部の規律と、手のかかるレギュラーの世話でくたばりそうになった3年間の中で、そのきらきらした宝物みたいな一瞬だけを大事に、誰にも言わずにこっそり心の奥にしまい込もうとしたあたしの謙虚さを「好きだ」という3文字だけでこなごなに吹き飛ばして、幸村はどーんとあたしの前に立っていた。「あー.........」とか「えーと.........」とか要領を得ない返事しか出来ずに、くらくらするあたしの脳内でなぜかその時、数日前に友人としていた数秒の他愛のない会話がフラッシュバックした。なんだ?あたし、たしかすごく気になる事を言ったような気がする。



、本当にさー幸村くんて彼女いないの?」

「うん、いないと思うよ」

「なんか意外だよね」

「どうだろうな、やっぱり今テニス一筋なんだと思う」

「そっか、残念!ちょっと密かに狙ってたのに」

「そうだったんだ」

「でもさ“幸村くんの彼女”なんて考えてみたら、すごいプレッシャーだよね?」

「ああ、そうかも」

「中学テニス界最強プレイヤーの彼女な上に
あの毎日幸村くん見つめてる女の子ら全員敵に回すわけだし」

「うっわ、ハゲそー」



ああ、なんて馬鹿な事を言ったのだろう。
思い出さなくても良かったかもしれない。
ぐらりと地面がよろめいて、とんっと一歩下がったらそこは窓際で、手をついた壁は冷たく、そして目の前には笑顔の幸村。その時、とっさに取った行動は褒められたものではないけれど、最善の方法だったと思う。あたしは震える足に力を入れた。


「俺さー........は陸上部に入れば良かったと思うんだよね」

「.................ごめんなさい」

「うん、今からでも遅くないよ、退部届けは俺が出しといてあげるから」

「..................勘弁して下さい」


光の速さで逃げる、という行為はいたく幸村のプライドを傷つけたらしい。教室から飛び出した間際に見た幸村の瞳を思い出してあたしはぎゅっと心が痛くなる。今、目の前で組まれた長い足はゆらゆらと優雅に揺れているけれど、靴の先まで苛立だしげだ。


悲しくなって、ふと幸村の手元を覗き込んで「うわー.........」とあたしは息をのんだ。

そこには楽園のような世界が広がっていた。

さらさらと瞬くような光をまとい、紙の上にはきれいな、繊細そうな、とても気の良さそうな女の子が生まれていた。相変わらず幸村は黙って何も言わず、全身であたしを拒絶していたけれど、その薄い1ミリの紙の上に魔法のように生まれた世界が、彼の本心だという事がわかり、うつむく幸村の午後の茜色の光にほんのりと染まった頬を見ていたら、なんだかあたしは泣けてきた。



「ごめんね、幸村.........あたし、ビビった」



トン、と幸村は完成した絵をあたしの前において、今日初めて視線をちゃんと
あたしの瞳に合わせた。


は俺の中でこうだから」


絵の中のあたしは、自分でも知らないような良い笑顔で笑っていて、なんというか、優しそうな、やわらかそうな、少し脆い、完璧な女の子だった。



「だから自信をもって.........俺のものになれば良いと思うよ」



言葉もなく、ただ熱くなる顔をうつむかせたら「あーあ」と幸村がどうしようもないような
溜息をついた。


、そこの5Bの鉛筆とって」

「.........いいけど、ずいぶん強いやつだね」

「今、赤くなった頬の色も描き足さなきゃいけないから」

「.........っ!」


「まったく、世話がやけるなー」と震えるあたしの手からステッドラーの5Bを奪い取って、ついでにちらりとあたしの指に触れて、そのまま幸村は奇跡のようにあたしの心にも綺麗な恋の風景を描き出した。










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